『人間失格』──読んだ感想

この小説の主人公「大庭葉蔵」はかわいそうな人間だと私は思います。 彼は、あまりにも「純粋」すぎたために破滅の一途をたどって行ったのではないのでしょうか?

確かに「第一の手記」を見ると、彼はすごくひねくれた子供のように思われます。 彼は人間というものが分からず、そして信じられずに苦悩し、そして挙句の果てに笑われるようなことをわざと、しかも周りには分からないようにすることで何とか人間と付き合っていこうと「道化」します。 しかし、その人間が分からない・信じられないという理由は、同じくその「第一の手記」によると、表ではほめて裏では悪口を言ったりする人間が、そのあざむきあいに対する罪の意識もなく「清く明るく朗らかに」生きているということです。 このように考えるというのは、決してひねくれているとかそういうのではなく、本当は普通の人間以上に「純粋」なためにこのようなことを考えてしまうのではないのでしょうか?

彼のこの性格というのはひょっとしたらこの『人間失格』には書かれていないもっと幼いころの影響があるのではないのでしょうか? 彼の考えを見ていると、まるで最近よく言われているある子供たちと同じような気がします。 それは親のしつけが厳しいところで育った子供たちです。 ひょっとしたら彼が二歳か三歳くらいの頃は、アレが欲しいとか、アレがしたいとか本人の記憶にはなくても結構言っていたのかもしれません。 しかし、そういうことを言うたびに「そんなことを言ってはいけません。」とか「そんなもの欲しがるな。」とか言われ、ときには怒られたり、さらには何度か叩かれたりとかして、その結果、次第に人間というものが怖くなってきて、このような人間不信になったのではないのでしょうか? また、そのように不信のためにだんだん人間の行動までもが不可思議に思えてきたのではないのでしょうか? これは彼の父親が政治家であることを考えると十分考えられることではないのでしょうか?

彼の破滅の原因には「酒と女」というのも挙げられると思います。 実際に彼が家族からの縁がほとんど切られたのも銀座の大カフェのホステスと心中未遂を起こしてしまったことが原因だし、最後に彼が精神病院に送られてしまったのは酒の代わりにモルヒネを使い出してしまったのが原因で、他の彼の言う「恥の多い人生」の原因も女が原因です。 しかし、これもやはりもとをただせば、一時的にでも人間に対する恐怖から脱することができるという理由で酒や女にのめりこんでいったのだから、やはり彼の人間に対する恐怖、ひいてはそれの根本にある異常なまでの「純粋さ」が人生の破滅の原因であると、ここでも言えます。 しかも、その純粋さが余計に女をとりこにしたのではないかとも思います。 彼自身は「第一の手記」の最後に自分の放つ孤独な雰囲気によって女がよってくると書いています。 これも確かにあると思います。 しかし物語の最後で京橋のスタンド・バアのマダムが「神様みたいないい子でした」というようなことを言っているのをみると、この「純粋さ」というのもやはり引きつけて、というか引きつけたままにしていたのではないかと思います。

それでも彼は、一回は人間に対する恐怖を完全ではありませんがかなり抑えることができています。 しかし、それでも結局は内縁のヨシ子が他の男と関係を持ってしまい、しかもそれはヨシ子が人を疑うことを知らないためだと思った結果、彼は前よりもひどく乱れて破滅の過程の最終局面を迎えています。 私はこの乱れ方は、彼がヨシ子を単なる女ではなく、無意識の内に自分と同じ「純粋さ」を持っている人間と認識していたのではないのでしょうか? そしてその「同じ人間」と触れ合うことで、人間を信頼してもいいのではないかと感じていたのだと思います。 しかし、その「同じ人間」が、やはり「純粋さ」がゆえに汚れたために、「純粋さ」というものがやはりダメだと感じてしまい、その結果、このような破滅への道をたどったのだと思います。

私はこの話を読み、そしてこういう風に解釈していくと、私は決して彼自身が悪い性格なためにこのような破滅をたどったのではなく、普通の人間の汚さというものが彼の「純粋さ」というものをことごとく傷つけていったことが彼の破滅の原因だと思っています。 彼は本当にかわいそうな人だと思います。 「正直者がバカを見る」とはよく言いますが、この「正直者」というのを「疑うことを知らない純粋な者」と解釈するとすれば、この小説にはこの言葉がピッタリ合うと思います。 そしてそのような世間に対する作者の嫌悪感というものを同時に表現しているものだと思います。


ホーム > ぞーき・B・ばやし >